🔶幼少の頃
父は職場の合唱団で指揮をする音楽好きで母も歌が大好き、いつも音楽が溢れている暖かい家庭だった。
私は3歳からピアノを習い、のびのびと弾いていた。
よく熱を出す子だったが活発でおてんば、いつも手足は擦り傷だらけだった。
父は日曜日になると私と妹をピアノの前に並ばせて歌の練習をさせた。
私は歌が大好きになりドイツ民謡、アメリカ歌、ロシア民謡などを覚え、すぐに3度6度のハーモニーを付けて歌えるようになった。
🔶基礎のやり直しで苦しい低学年
ピアノは近所の先生に習った。
小1 手指の形もメチャクチャでバイエルの終わりを弾いていたが、その教え方に母が疑問を持ち先生を変わった。新しい先生は元ピアニスト。
徹底的に基礎やり直しで、親子ともに泣きながらの辛い毎日だった。
後に母は「最初の基礎だけは本当にきっちりしないとね」とよく話していた。
小2 先生のご自宅に電車バスを乗り継いで片道1時間半通うように。
先生はとても厳しかったが、素晴らしい音楽性をお持ちの方だった。
レッスンのある土曜日は楽しみだった。
5〜6年生に大きい人達に混じって聴音(音の聴きとり)をするのが嬉しかったし、レッスンの後に食べる中華飯店のチャーシューラーメンも大好きでレッスンを頑張っていたと思う。
小3で初めてのコンクール。
“スピード自動車(中田喜直作曲)”を弾き特賞をもらった。
小5,6と堺市少年少女合唱団に入団。
初めて自分の声が “ カエルの声” 並の悪声だったと知り愕然!
合唱団には美しい声の人ばかり。
劣等感で何度もサボったが、合唱の迫力満点のハーモニーに魅了され、我を忘れて歌うようになる。
この頃、詩にメロディを付けて歌を作り作曲ノートにいっぱい書いていた。
通っていた堺市立茶山台小学校は市のモデル校で、熱心で新しい取り組みも多く、卒業式に生徒の作った歌を皆で歌うイベントがあった。
小5で卒業生を送る歌、小6で卒業の歌と、自分の作った歌が選ばれ嬉しかった。
一方、“ひいきされてる” と女子の一部からいじめを受けたり、小6の後半は複雑だった。
🔶母がピアノの先生に
小学校高学年から母がピアノの先生になり、週一で出稽古に行った。
同じ頃、私も徐々に遠距離を一人でレッスンに通うようになる。
プチ自立だった。
🔶思春期〜迷い悩みながら、やっぱりピアノが好きだ!と気付く
中学時代はひたすら暗かった。
中1でTV番組‘アタックナンバーワン’のヒロインに憧れて秘そかにバレーボール部に入ったけれど、2週間でピアノの先生にばれてバレーを断念!部活厳禁の先生だった。
通い始めた英数塾はユニークで、学者さんが教える数学はとっても面白く週2回4時間ずつの塾のためにピアノ練習量は激減。
ツェルニー50、バッハ、ベートーベンとやりながらも、小6で弾いたショパン“幻想即興曲” 以来、上達遅く曲は中々仕上がらず悶々と、イライラと焦っていた。
高校受験はトップ校を目指したが、ピアノの先生が「一番近い高校に行きなさい」の一言。
一気に勉強モチベーションを失い成績ガタ落ち。
でも、『やっぱり音楽が好き。ピアノを弾いていきたい!』と改めて気が付いた。
大阪府立泉北高校は自転車で10分、地域で上から3番目の学校だった。
中学時代の塾で高1の学習を完了していたので、高1はほとんど勉強せず仲間と原っぱで歌を歌ったりお喋りしたり~この頃初めてポップス音楽を知り、特にユーミンは全て口移し的に友達から覚えた。
自分が超“世間知らず”だと気付き、ラーメン屋でバイトしたり、ボーリングやカラオケに行ったり。
とにかく楽しい日々だった。
そんな私にピアノの先生は「これではピアノ専門はダメだ」と思われ、音大の先生に変わることとなった。
高2 レッスンがあまり面白くなく感じて練習も熱心でなく、加えて勉強の‘貯金’切れで、数Ⅱbも物理もワカラナイことだらけでキャーッって感じに。
そうしている間に一気に音大受験モードに巻き込まれていった。
🔶音大時代〜目の廻る忙しさ
大阪音楽大学4年制ピアノ科入学
入学後初めての友人は、教育大付属高校出身で勉強もピカイチの才女。
ピアノも勉強も両立させている人にショックを受けた。彼女にはドイツ語の授業で沢山お世話になった。
2年生で2台のピアノ・アンサンブルのオーディンに受かってしまい、ソロのレッスンに加えて5人の教授陣に教わることになる。これは面白い経験だった。
一方、週1のソロのレッスンの練習だけでも大変だったのが週2になり、
毎日練習練習に追われていった。
「練習だけで4年間終わってしまったらどうしよう、、、」と思ったことが、
〈世界の民族音楽行脚〉のきっかけだった。
・インドネシアのガムラン音楽(阪大ガムラン部、時に東京芸大で修業)、
・インドのシタール(K・タゴール先生の授業で多くのコンサートに参加)
・雅楽のフィールドワーク&演奏発表
などなど
民族音楽に触れて世界には多様な音楽体系があると知る。
また、音楽学の友人に誘われ文楽や歌舞伎を数多く見た事で、日本文化にも目を開かれた。
ピアノの練習はままならなかったが、素晴らしい経験ばかりだった。
3年生で古楽器ヴィオラ・ダ・ガンバに出逢い夢中になる。
弓奏弦楽器の魅力は格別で、またルネッサンスやバロック音楽が大好きになった。
クラシック音楽のルーツを実体験で学べたことはとても大きかったし、弓奏楽器は極弱の音も出せるので耳が鍛えられ鋭くなった。
それまでバッハは苦手だったが、初めてバッハの凄さに開眼。
ガンバに取り組む事で多くを得て、ピアノの演奏も成長したと思う。
4年生は必死でピアノ練習に戻り卒業試験曲スクリャービンのファンタジーに取り組んだ。
何とか卒業演奏会に選ばれて演奏し両親に喜んでもらえてホッとしたことを覚えている。
🔶二足の草じ
20歳から自宅で少しずつピアノを教え始め,卒業と同時に大阪府立和泉高校で週3日非常勤講師の仕事をするようになった。
同じ“ 音楽” とはいえ、高校授業は別物で毎日必死だった。
この時初めて、自分が本当にしたい仕事は《ピアノを通して人と関わること》だと強く思った。
高校講師を一年で終わり、ピアノ教師を本格的に始める。
🔶二代目襲名
その後、母の教えていたピアノ生徒を引き継ぎ45〜50人の教室を受け持つ。
大学時代に始めたヴィオラ・ダ・ガンバは、どうしても続けたくて母から借金して楽器を購入。
少しずつ演奏会に呼んでもらい演奏するようになっていった。
月1で東京にガンバのレッスンに通い、本当によく勉強した。
また、時間さえあればピアノを教えるための講習会に行き、あれやこれやと新しいメソッドを生徒さんと取り組んでみたり。
ご飯を食べる時間がないくらい動き回っていたので、よく移動中の電車の中でおにぎりをかじっていた🍙今考えると恥ずかしい。
《ピアノとガンバ》 この2足の草鞋は私には無くてはならない物となった。
🔶結婚 (29歳)
音大時代の教授の紹介で某大学経済学教授に出会い意気投合して一年後に結婚。
29歳だった。
便利の良い市内の下町に住み実家レッスンを続けながらの結婚だった。
夫の職場の都合で引っ越しして、生徒さんが自宅と実家で60名近くなった。
行ったり来たりの生活が身籠るまで続いた。
🔶34歳で長男を出産。フラフラに。
出産後一か月にガンバの本番を入れていて(産んだら弾けると短慮!)加えて夜泣きの激しい子で朝も晩も泣かれてフラフラに。
夫は仕事で毎晩遅くまで帰宅せず、母は「自分たちで頑張りなさい」と言い、私はあっという間に痩せてゲッソリしてしまった。
それで、子どもを一歳半から保育園に預けることになった。
🔶イギリスへ。ピアノ教室の生徒さんと泣く泣くお別れ
やっと〈赤ちゃんと仕事〉の両立生活に慣れてきた子どもが2歳の時、夫の仕事の都合でイギリスに行くことになった。
“せっかく保育所に入れたのにー” と思ったが、ヨーロッパで暮らす良いチャンス!と思い同行を決めた。
「帰国したら又習いたい」と何人もの生徒さんが言ってくださったが、滞英が長くなるかもという事情があり他の先生に引継いで頂いた。
生徒さんたちと泣く泣く別れる事になった。
🔶ワンオペ育児とイギリス時代
〜楽しかったこと、辛かったこと、驚き満載の2年間〜
約2年ほどイギリス北部スコットランドのグラスゴーに住んだ。
イギリスでも夫は朝から晩まで仕事。おまけに全く日本人の居ない地域で、始めは必死のワンオペ(一人)子育てだった。
余りの環境激変に子どもは不安定になってオムツもおねしょも元のもくあみに。
天気の変化が激しい国で、突然雨に降られて買い物途中にずぶ濡れになったり、洗濯物を1日10回も20回も出したり入れたり。
今から思えば笑えるけれど、当時は泣けてきた事もいっぱいあった。
スーパーではハムやチーズを試食出来るのだが、その量が半端なく多く試食だけでお腹いっぱいに(笑)。
ハム、チーズ、ワイン、肉など美味しくて美味しくて、数々の苦労と反比例するように体重はグングン増えていった。
英語は始めの頃、〈聞こえない、喋れない、分からない〉で落ち込んだが、少しずつ慣れてきて、子どもも半日幼稚園に通うようになりママ友も出来た。
不思議な事に、暫くすると英単語が一語ずつバラバラに聞こえてくる様になる。
“喋る” より先に“ 聞こえる” ようになった。〜当たり前だけれど面白かった。
週に1〜2回通った英語カレッジはたった半年でたった¥6000。
内容が濃く生徒はみんな熱心な外国人だったのでそこでも色々な文化に接した。
オウペアという働きながら学べる制度でポーランドから来ている若い女性、エゴ丸出しのハンガリーからの10代の子たち。フランス、中国、韓国、、、日本人も数名短期で来ていた。昼ご飯は色んな国の人達と英語でお喋りしながらのカルチャータイムだった。
英語カレッジでは〈子ども連れハイキング〉や〈家族ダンスパーティー〉にも参加。
異国で子育てするママさん達のたくましさに励まされた。
幼稚園や学校のシステムや考え方も様々な場面で日本とは違っていた。
幼稚園では、3時間の間に全員でやる事はたった2つ。
“ Twinkle Twinkle little star” を歌う事とオヤツ。
あとは大きな部屋に、お絵描き、粘土遊び、おままごと、ブロック、工作、、、といろんなコーナーがあり、好きな事を好きなだけ出来る。
息子は入ってしばらくはずっと粘土を触っていた。
少しだけ通った教会幼稚園では保護者はいつでも自由に参加できた。
私がサポートに入ったお絵描きコーナーでは、3時間ずっと絵を描いている4歳の子もいた。
徹底して本人の意志に任せるやり方はスゴイと思った。
息子が通っていた公立幼稚園はセキュリティが強く、門と学校扉の二重ロックで運動場も建物も高い塀で囲まれていた。
ブルドーザーでも入れないほどだった。
送り迎えも必ず保護者がして、子どもだけで下校させる事は絶対無かった。
子どもが12歳までは子どもの単独行動は御法度。
自宅に子ども一人で留守番させて親が逮捕された話は、私には衝撃だった。
それほど児童誘拐などが深刻だった。
ある日、30分歩いて幼稚園に息子を迎えに行ったが早く着いてしまい、チョット休憩したくて、芝生に座って新聞を読んでいるイギリス人のお父さんに、
「芝生に座っていいですか?」 と尋ねたところ、その人は
「イヤイヤどうもうっかり、でね。イヤイヤ、、、」と慌てて立ち去った。
私は「???」何だったのかな?
その人は、芝生に座ってはいけない、と責められたと思ったらしかった。
そんな婉曲な表現が、私に使えるわけもないのだが。
『察する文化のイギリス』を実感した出来事だった。
子どもが小さかったので、「日本人の大変そうなママがいる」といろんな人が自宅に招いてくれた。
イギリス人のホスピタリティに感謝だった。
招かれたお宅のリビングには必ず暖炉があった(電気の暖炉などもあった)。
大抵全部の部屋を見せてくれベッドルームも見たが、寝室はみなベッドと電灯がシンメトリーになっていた。どこもかしこもシンメトリーの印象だった。
部屋中に高価な陶器が何十個も飾られているお宅では陶器を壊さないかと心配で何を食べたか思い出せない。
お爺さんの、ひいお婆さんの、などアンティークの立派な椅子や家具を修理して使っている友人宅では、家族の歴史を聞かせてもらったりで感動的だった。
自分たちで壁紙を替えるDIY夫婦もいて、壁が緑になったり赤になったりで笑っちゃうことも。
いろんなおうちが見られてとても楽しかった。
少しずつ友人知人が出来、とりわけ息子の幼稚園のママ友とは日々の遊び、ハイキング、橇滑りやミュージアム遠足など、たくさんの“ 楽しみ” と“ 驚き” があった。
休日は大きな公園や森で毎週のようにハイキング。
とにかく歩くのが好きな国民性で、よく歩き、よく喋り、で一日過ごした。
息子の一番仲良しのクレイグは小麦粉アレルギーで一切のスイーツが食べられなかった。
ある日4〜5家族一緒に出掛けてカフェで休憩した時、クレイグのママがオヤツを忘れてクレイグが何も食べられなかったが、他の親子は気にする事もなくフツーにスイーツを食べる。思いやりは大切にしながらも、『人は人、自分は自分』だった。
ガンバを持参して行ったが、毎日が必死過ぎて存在すら忘れそうな日々だった。
ある日、英会話学校をサボって一人で市中のアンティークショップに行った折に偶然知り合ったチェリストがガンバも弾く人だった。
それからというもの毎週水曜、チェリストが迎えに来て夜の4時間、アマチュアやプロが混ざってアンサンブルをした。ここは正に本場。愉しい音楽の時間だった。
チェリストのロバート御宅にはチェンバロが、グラスゴー大学人文学教授の御宅にはビッグサイズのオルガンがあり、ルネサンスからバロック音楽まで巾広くアンサンブルした。
練習の合間のティータイムでは、例外なく男の人がお茶やお菓子の用意をして、女性たちはゆっくり寛いでいる〜そんな光景もびっくりだった。
滞在2年目の夏、仲間のプロ奏者たちとエディンバラ音楽祭に出演し、ガンバ2台とチェンバロのコンサートをしたのは良い思い出となった。
🔶9.11テロを海外で経験(息子は4歳に)
2000年9.11のテロの混乱はイギリス片田舎にいる私たちにも恐ろしいほどだった。
翌朝、全てのゴミ箱が封鎖され、全ての駅に警官が2名ずつ配備されていた。
どこもかしこも異様な緊張感が漂っていた。
息子が就学するまでイギリス滞在延長したいと思っていた私だったが、幼い子ども連れでは危ないと思い帰国を決心。
10月に帰国して息子は地元の幼稚園に通い始め、私も4か月後から生徒さん一人から再び新たにレッスンをスタートした。
🔶帰国、育児ノイローゼ
再び生活の激変で子どもも私も大変。
私は頑張り過ぎてストレスで突発性難聴になり2週間入院。
息子が就学する直前だった。
耳が聞こえず心底怖かった。
この時、『無理はアカン』と身に染みる。
住んでいる地域では小学校お受験は少なく息子も家の裏の公立小学校へ。
小2から時々イジメに合った。
私もPTA委員をやったりネットワーク作りを頑張ったが、落ち着かない日々だった。
🔶ピアノ教室再開
PTAや地域の繋がりで生徒さんも少しずつ増えてきた。
土日は仕事無しにして、自然が大好きな息子と野山を駆け回ったり魚釣りしたり。
週末はいつも泥々になって遊んだ。
息子にもピアノを、と自分で教えたのは失敗だった;;
友人たちから「自分の子どもは教えない方がいい」とさんざ聞いていたのだが。。。
小1からピアノを始めた息子は小6でベートーベン・ソナタ1番を弾いた後「イヤだ」と辞めてしまった。
私の教え方が冷静でなくて、息子にはダメダメ先生だった。
それでも息子はお気に入りのミュージカルなどは全幕覚えて歌も上手く、音感もバッチリ。
中3の学校合唱コンクールでは伴奏を弾いて先生方から誉められていた。
本人もピアノやってて良かったと実感した様子だった。
私も少しホッとした。
🔶子育て奮闘記
40代は息子が小学~中学生で、気持ちとしてはいつも子ども中心だった。
息子は明るい子だったが物事をじっくりと考えるデリケートなところがあり、思春期は苦戦した。私も学校のカウンセリングの先生にはたくさんアドバイスや気づきを頂いた。
それは今、レッスンの生徒さんたちに役立っていると思う。
ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏は、地域でもコンサートが増え、続けていたグループでの定期的なコンサートもあり継続的に演奏活動をしている。
ピアノ演奏は、時々歌手の伴奏者を頼まれて小さなコンサートやコンクールで演奏するようなペースで活動。
🔶大怪我
そんな50歳の時、慌ただしい年の瀬に道で転倒し肩に大怪我。
その後2年間、痛みと不自由な手に苦しんだ。
腕が上がらない状態だったが、レッスンやコンサートは〈工夫と忍耐〉で何とか乗り越えられたのは良い学びだった。
肩も回復し、またずっと認知症の父のお世話があったが、それも終わり、昨年から再びガッツリ《教える仕事》に時間を使える幸せな時期が来た。
🔶現在
自分は、興味のある事に夢中に集中する性格、余りくよくよしない大らかな所もあり、臆せずいろんな体験をしてきた。
今までの様々な経験が、今、私の中で熟していっているように思う。
ピアノ講師、ピアノ演奏、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の活動も休むことなく続けられて幸運だったし、
素晴らしい先生方から学んだことは、
〈心の〉、〈演奏の〉、そして〈教える仕事の〉大切な《栄養》となっている。
子育てに一段落した今こそ、今までの経験を全て生かして、生徒さんのお役に立ちたいと思うようになった。
イギリスでは、ピアノはとても“ ハイソ” な習い事だった。
英語にハンディがあった私だが、ピアノが弾ける事で一目置かれ、友人知人の輪を広げることが出来た。
音楽は〈心の栄養〉、〈癒し〉、〈コミニケーション〉の大事な手段であると何度思ったかしれない。
だからこそ、もっと多くの人が気軽に習えたらいいのに。
イギリスに比べ、日本のピアノ教育は子供たちが習いやすい環境にある。
私は日本のピアノ教師としてもっともっとピアノを広めていきたいと思っている。
・中学高音楽科教諭1級免許、高等学校音楽科教諭2級免許所持。
・一般社団法人 全日本らくらくピアノ®️協会認定講師。
・【ピアノこころのほけんしつ】【育脳ピアノレッスンの教科書】認定教室。